『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』読んだメモ

2022/4/2

ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』を読んだのでメモ。

「言語(母語)が思考に影響を与えるのか」という命題がある。

よく聞く話で、「虹の色はいくつあるか」という質問に対して、われわれはふつう「7」と回答するが、これが別の言語圏だと5であったり4であったりする。

別の話で、「一言で翻訳できない言葉」というのが存在する。たとえばスウェーデン語には「mangata」という言葉があるが、これを日本語で翻訳しようとすると「水面に映った道のように見える月明かり」といったものになる(出典:エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界の言葉』)

そういった、「同じものをどのように表現するか」という言語ごとの差が、人間の知覚や思考にも影響を与えるのだろうか、という命題である。具体例としては「抽象的な意味の言葉をより多く持つ言語の話者は、ほかの言語話者とくらべてより洗練された思考能力を持つのか」「色に関する言葉が多い言語の話者は、ほかの言語話者とくらべてより色に関して敏感で、優れた色彩感覚を持つのか」といったものが挙げられる。

この本はその命題に対して、過去の言語学者たちの取り組みを俯瞰しつつ、現段階での見解を述べている。この本において、この命題の結論は「イエス」である。しかしそれは言語によって世界観がまったく変わるような劇的な違いではなく、もっと(見た限りは)ささいなものである。この本は、そのような劇的な真実を伝えてくれるようなものではなく、過去から現代に至るまで、その命題に対して言語学者たちがどのようなことを考え、どのような思考・実験を積み重ねてきたのか、というある種のドラマ的要素が面白い本だった。

本書は古代ギリシャの詩人「ホメロス」の作品では色の表現が直感に反するというところから議論がスタートし、そのまま前半は色感について語られる。大方の言語において、まず黒、白、赤の区別がなされ、その後、黄色、緑、青といった順番で色の区別がされていくことが共通していることから、19世紀には「人間の進化に伴い、色覚自体が進化を遂げた。古代の芸術作品等において色の描写が不自然なのは、現代の我々とくらべて未発達の色感を有していたからだ」という見解がなされておいた。

しかし、「青」という言葉をもたない言語の話者に対して色覚テストをすると青色を区別できることから、「言語において色数が少ないことは、その言語を有する文化が視覚において未開であると示すものではない」ことがわかった。さらに、「言語の限界が知覚の限界」つまり「ある言語で表現できないものを、その話者が理解することはできない」という説が否定されたことになる。ドイツ語の「シャーデンフロイデ」という単語に対応する言葉は日本語には存在しないが、「他人の不幸を喜ぶ」という概念はたやすく理解できる。

では言語と知覚・思考は無関係なのか。エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフが提唱した「言語がその話者の知覚・思考に影響を与える」という言語相対論は否定されたのか。その問いに、フランツ・ボアズとロマーン・ヤーコブソンは「言語の違いは基本的に、なにを伝えていいかではなく、なにを伝えなければならないかということにある」と回答する。たとえば日本語では兄弟のことを話すときに、それが年上か年下かを区別するが、英語ではそれを区別しない。その場合、日本語の話者は自分の兄弟について話すときに「年上か年下か」を伝えることを強制される。何かを言ったり考えたりするときに、そうした物事の特定の側面に注目することを強いることで、その習慣は記憶や知覚に影響を与える。

この影響が具体的にどのようなものなのか、それを見極めることが言語学者にとっては悩みの種だった。色感の問題に戻る。「ある色Aと色Bと色Cのうち、色が近い2色はどれか」を被験者に問うという実験が行われた。これら3色の色の違いは色スペクトル上は同程度であるにもかかわらず、「その色を被験者の母語で呼ぶと何色に属するのか」が異なる色については色の違いが強く評価される結果になった。それだけを聞くと「言語での色の区別が、知覚上の色の区別に影響を与えている」ように見える。しかし、単に「似たような色ではあるが、こちら2つは緑だけど、これは青だから違う色だ」という、知覚ではなく言語での色の区別がそのまま実験結果になっているだけの可能性を捨てきれなかった。

そこで言語学者たちが取った方法が面白かった。「どの色が仲間はずれか」という主観を聞くのではなく、単に「同じ色2色を選んでください」とし、その回答にかかる時間を計測したのだった。その結果、「言語での色の区別が異なる」仲間はずれを選ぶ場合に回答にかかる時間が短かった。つまり、色の知覚は、主観的判断を使えるレベルでは差異を生まないが、無意識のレベルになると言語によって差異が生まれるのである。さらにこうした実験における脳の活動を見るために、MRIのなかで同じような実験を試みることもされている。

過去に思われていたような「母語が私達の知的地平を限界づける」ようなものではなかったし、いまだに連想や概念が言語によってどのように影響を受けているのかを把握できていないが、それでも、母語の、とくにそれによって表現される習慣によって知覚が影響を受けることがわかった。そしてそこに至るまでにどのような議論があったのか、言語学の実験において「被験者の主観」を排除するためにどれだけの工夫がこらされたのか、その過程を1冊かけて紹介している面白い本だったと思う。