佐藤信夫『レトリック認識』を読んだ。
この本では「レトリック」と「修辞」を区別しており、「修辞の問題にかぎらぬ発想から発表までの技術を包括する大きなシステムとしてのレトリック」と、「純粋に言語表現――思っていることを効果的なことばに変換する過程――のみをあつかう修辞」としている。そのうち前者におけるいくつかの表現(黙説、ためらい、転喩、対比、対義結合、諷喩、反語、暗示引用)について解説をしている。
さいきん「ゆる言語学ラジオ」を見たりしているのもあって、こういうのは楽しく読むことができる。用例を読んで「たしかに言われてみればそう感じる、面白い」となることもあれば、著者の解説がそこからさらに一歩踏み込んでいる点も良い。用例読んで「たしかに」となってから解説で「たしかにそう言われるとそうだ」みたいな感じになるのがなぜかレトリカルに感じになって面白い。解説文自体にレトリックの手法をところどころ用いているところにも著者のお茶目さを感じる。
この本で解説されていた手法の中で、とらえどころがいちばん難しいのが「転喩」だった。
《転喩》は換喩の一種であり、先行するものごとを意味させるために後続するものごとを、あるいは後続するものごとを意味させるために先行するものごとを言い表す。
というのが定義らしいが、なかなかそれだけでは理解しづらい。「彼は昨日まで生きていた」という表現は言外に「彼は今日死んでいる」ことを意味していると聞いて、なんとなく意味をつかめる。
たとえば、しばらく前に「美しすぎる市議」という言葉が流行ったし、最近だと「働くママ」とか「イクメン」とかいう言葉を聞いたりする。これは言外に「市議はふつう美しく(すぎ)ない」「ママはふつう働かない」「メンはふつう育児をしない」ことを示している(と思う)が、これも「転喩」の一種なのだろうか。
あと面白いのが「暗示引用」で、「いよいよ竹の中より生まれいでたる人のように」と明らかに『竹取物語』の知識を必要とする表現などを指している。
これは美術におけるイコノグラフィー(図像学)との相似がある(たぶん)。たとえば十字架に貼り付けられた男の絵を見て、それをイエス・キリストだとわかるのはキリスト教の知識があるからだし、たとえば「麦わら帽子の海賊のようによく食べる」という表現があったとして、『ワンピース』を読んだことがある人はなんとなくニュアンスがつかめるかもしれない。イコノグラフィーは必ずしも「引用」ではないが、「わかるひとには伝わる表現」という意味では似通っている。
この「わかるひとなら伝わる」というのが「読み手に対する選別作用を(いやおうなしに)発揮する」というのが著者の解説に含まれている。いわばそこに含まれる差別性、暴力性みたいなものが「暗示引用」というものの本質なのではという気もする。門外漢には理解ができない符牒を使って内輪だけで楽しむだけでなく、場合によっては理解できないものに対しての優越感を感じるところがなくはないかもしれない。日常生活であっても、こういった手法に頼るとき、そこに自覚的にであれるかどうかが大事なんだと思う。